お経の「経」は、人生の縦糸
過日、お寺の永代経の後、法話がありました。
若い女性の講師でした。お母様が有名な方でした。
無着成恭(むちゃく・せいきょう)(子供電話相談室に長年でておられた)さんのお話を優しくお話していただきました。
以下の言い回しは男言葉に変換しました。(だって、女言葉言えないんですもの?~~ゆうとるがな)
お寺は葬式や法事をするためにあるのではない。
人間教育するところだはないでせうか。
「授業」といふことのはは仏教語です。
業を授けるというのは、カルマを悟らせること。だから、「ジュゴウ」という。
(私の法名は「釋浄業」(じょうごう)ですが一発変換できんのです。単語登録しないかん。おっ~と、本題へ戻そう。)
住職になる資格を「教師分限」という。
お経の話をしてるんでした~ね。
「経」は、その人間の人生の縦糸だ。
反物を織る時、機に縦糸を据え付けてから、横糸をギコバタトントンって織っていく。縦糸は織ると見えなくなる。しかも、縦糸は何度も織り機で擦られるが切れてはいけない。横糸は切れても直ぐ繋げるが、(紬は横糸を結んで織るので凹凸ができる。本題へ~)縦糸が切れると織り機を止めなければならない、重要な糸です。
畳も、いい畳かどうかは表面に使われるイグサでは決まらない。中の縦糸で決まる。
その人間がどれだけ偉いかということも表では分からない。その人間が持つ人生の縦糸、経で決まるんだ。
地球儀も経度・緯度がある。国家経営の経も、経済の経もそうだ。(経済は経世済民を縮めた言葉)
日本人は縦糸をなくしてしまったのではないか。
あなたの家の「家訓」は何ですか?
そんな言葉さえ日本人は忘れちゃったんじゃないですか。
家訓という言葉が死語になってしまったならば、日本は滅びざるを得ないだろうと思います。
ご飯の食べ方はこうだよ、ご先祖さまはこうしてきたんだよということを教えるのが家訓。(NKH甘玉堂の家訓は「一意専心」?額が左から書いてあるのはオカシイと思うのですが~)
家訓とか家伝とか家風があって、その中で育っていくのです。
私たち寺に係わるものが、教えていかなければならないと思っています
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