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2009年8月26日 (水曜日)

広島平和記念公園は丹下 健三とイサム・ノグチの強い思いであふれている

イサム・ノグチ
日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日 はアメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。父が日本人で母がアメリカ人という日系アメリカ人である。香川県庵治町にアトリエを構えた。居酒屋の内部デザインのアドバイスもする幅広い人であった。

広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれたが、原爆を落としたアメリカの人間であるとの理由で選考に外れた。

しかし彼のデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされているというかほとんどイサム・ノグチの案であった。

また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインは、ノグチの手によるものである。

彼は後年、アメリカ大統領の慰霊碑を設計したが、日系であるとの理由で却下された。

日系といったり、アメリカ系といったり悪しき方に置かれ、苦渋に満ちた人生であるにも係わらず、彼は世界規模で行動する偉大な人物であった。

丹下健三にアイディアを惜しみなく与えた。広島平和記念公園は丹下の設計となっているが、実際はイサム・ノグチのデザインだ。それを、聞き入れた丹下も立派であった。

丹下 健三

1913年9月4日 - 2005年3月22日は日本の建築家、都市計画家、「世界の丹下」と言われ、カトリック教徒(洗礼名:ヨセフ)であった。

建築家を志した想い出の地でもある広島が原爆の被災で壊滅的被害を受ける。その復興計画が俎上にのぼっていることを知るに及んだ丹下は、残留放射能の危険性を心配される向きがあるにもかかわらず、志願して担当を申し出た。

広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事一位で入選という形で結実することとなった。

この平和記念公園のコンペでは、他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通りと直交する軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配したことで他を圧した。これは、イサム・ノグチの案である。

また、一廃墟に過ぎなかった原爆ドームを、シンボル遺跡として発見したのは、事実上、丹下だ。 昭和41年7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があった。

丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推したが、丹下の恩師から「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」との強い反対意見によって、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。

丹下は、恩師岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさから、あえてノグチのデザインをほぼそのまま流用し、埴輪の家の屋根形の慰霊碑から原爆ドームが覗く様にデザインしたが、計画開始当初より単なる慰霊施設ではなく、平和を祈念し「平和を作りだすための工場」であるべきだとの丹下の建設理念は一貫していた。後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれる。

イサム・ノグチと丹下健三の平和への思いが重なり合い世界遺産となった。

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