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2009年8月27日 (木曜日)

今日は宮澤賢治の誕生日なのだ

Googleを開くと『銀河鉄道の夜』でした。Kenjimiyazawa09hp

尊敬する賢治の略歴を紹介する。

1896年8月27日 (戸籍上は1896年8月1日)生まれ、1933年9月21日37歳で没。
日本の詩人・童話作家・農業指導家。戸籍上は宮澤賢治と表記。 岩手県小岩井農場の近くで生れる。小岩井の製品を買うとき賢治やイーハトーブを思いだそう。Kennji2

賢治は盛岡高等農林学校卒業後、妹トシの医療費を稼ぐため花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続け、30歳の時に農学校を退職、独居生活に入る。ここで羅須地人協会を開き、農民講座を開設し、青年たちに農業を指導した。
自らの裕福な出、自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は作品に特有の陰影を加えた。

賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した国柱会での法華経による献身的精神があるとされる。また特異で旺盛な自然との交感力は作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。
殆どの作品は死後、発見され多数発表されている。それらには、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』などがある。

賢治が貧乏だったのは本を売っていないから。村上春樹、赤川次郎のやうに生前ベストセラーを出し長者番付に入る作家と逆の作家、芸術家はあまた居る。えてしてさういふ人達が後世まで残るものです。

1916(大正5)年 20歳 アインシュタイン「一般相対性理論」完成。
1917(大正6)年 21歳 ロシア革命成立。

1921(大正10)年 25歳 1月、上京。国柱会を訪問し、高知尾智耀に面会。  その勧めにより童話を多作する。
    8月、妹トシ病気のため、トランクに多数書きためた童話の原稿を詰め、帰郷。稗貫郡立稗貫農学校(翌年、県立花巻農学校となる)で教壇に立ち、代数・農産製造・作物・化学・英語・土壌・肥料・気象・水田稲作実習などを担当。
1922(大正11)年 26歳 11月27日、妹トシ24歳で永眠
1923(大正12)年 27歳 関東大震災。小作人争議、労働争議が激化する。
1924(大正13)年 28歳 作品(詩集・童話・絵本など)刊行する
       イギリス海岸でバタグルミ化石採集。
1926(昭和元)年 30歳 3月、花巻農学校を退職にあたって教え子に詩を送った。

   告  別

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかをKennji_2
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかヾやく天の仕事もするだろう
泰西(たいせい)著名の楽人たちが
幼齢弦(ようれいげん)や鍵器(けんき)をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器(こき)と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や材というものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさえひとにとゞまらぬ
云わなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもうもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光りの像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ
もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ

      下根子で自炊生活を始め、8月羅須地人協会を設立。
1928(昭和3)年 32歳 8月、稲作指導中に発熱病臥。生家で闘病生活に入る。
       化学肥料が普及。硫安の使用量が豆粕とならぶ。
1929(昭和4)年 33歳 世界恐慌始まる。小作人争議、労働争議が更に激化。
1931(昭和6)年 35歳 2月、東北砕石工場の技師となり、肥料用炭酸石灰の販売に奔走する。
      9月、上京するが発熱。自宅で臥せる。
      11月、手帳に「雨ニモマケズ」を書く。没後遺稿整理中に発見。
1933(昭和8)年 37歳 『国訳妙法蓮華経』千部を印刷し、知人に配布するよう遺言。
       自ら体を清め、9月21日午後1時半、永眠。
       法名「真金院三不日賢善男子」。

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