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2009年4月 3日 (金曜日)

ローリングスのスタジアム・ジャンパーの31番て?

中古のスタジャン買ったら左腕に31がパッチされていた。
こんなこと気になるよね。~ぬぁに、気にしないって人は病気になりにくい性格です。
まじめな性格の私は病気になりやすいのです
また、頑固な人、素直でない人、いつもしかめっ面している人、笑わない人などは病気になりやすい。


性格から自立神経を興奮させたり、落ち込んだりするとDNAのSW(スイッチ)がOFFになり、免疫力が低下する。
低下した状態で「俺ひょとして癌にならないかな?」 「最近体調が悪いな~?」などと考えてしまうと、ますます免疫力が低下し、本当に病気になります

体の内側から発生する病気の80%は医者では治せないそうだ。
現代医学でも殆どが対処療法で、根本治療ができないのです。

例えば、病院にいって「本当に治るんだらうか?」と思う人は治りません。「絶対治る、治ってやるぞ」と信じている人は、DNAのSWがONになり、対処療法の薬を服用しつつ自己免疫力が向上し、自ら持っている「自然治癒力」が働き、病気が治る可能性が大きい。
「病は気から」と昔から言われていることは科学的に証明できるのです。

またぞろ話が横道に~~これぞ徒然の真髄な~り・・・いい加減でせう。           「それでいいのだ」 Cal_bakada

検索結果は以下のとおり。

デビッド・マーク”デーブ”・ウィンフィールドは、元メジャーリーグの選手。

背番号31

守備は主に外野手。右投げ右打ち。アメリカ・ミネソタ州セントポール出身。アメリカ野球殿堂及びアメリカ大学野球殿堂の会員である。
ゴールドグラブ賞 7回(1979年、1980年、1982年 - 1985年、1987年)受賞している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89

ローリングス・ゴールドグラブ賞は、アメリカMLBの選手表彰のひとつ。

1957年、グラブメーカーのローリングス社が表彰を始める。Img10394602718

バットメーカーのヒラリッチ&ブラズビー社が表彰を行っていたシルバースラッガー賞はゴールドグラブ賞に対する賞として創設された。

ナショナルリーグ・アメリカンリーグの各リーグから、守備に卓越した選手が各ポジション1人ずつ計9人各チームの監督・コーチの投票によって選出される。初年度の1957年のみ各ポジション両リーグから1人ずつの選出、1958年以後は両リーグ各1人(外野は3人)の選出となった。最多受賞はグレッグ・マダックス(投手)の18回。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%96%E8%B3%9E

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良寛さんの続き4~思いやりの心

時には自分を犠牲にして他者のために行動する人がいる。
  一方で、自分の利益のことだけ考え他者をまったく気にかけない人がいる。
  日本は、他者への思いやりを持つ人と持たない人に分断された「思いやり格差社会」に向かいつつあるのではないか。
 
 年金がらみの不祥事、食の偽装、粉飾決算、教員採用試験汚職などは、自分の利益や保身だけに腐心し、被害をうける人のことを考えない生き方にほかならない。
 
  根底にあるのは「思いやり」の欠如だ。
 
 思いやりを育む上で、宗教の貢献は見過ごせない。
  諸宗教が、思いやりの心と実践に関する教えを持っている。
  畏敬の念、仏のご加護で生かされているという感謝の念が人を謙虚にし、自分の命と同様に他者の命も尊重させる。
  「おかげ様」や「恩返し」といった感謝の気持ちが「思いやり行動」の動機ともなるのだ。
 この思いやりの格差は、程度の差こそあるものの、いつの時代にも見られることであって目新しいことではない。
 
  だが、戦後民主主義から経済の高度成長、グローバル化など、自己責任とか効率化が声高になってから、目立つようになってきたと思う。

 誰でもが自分だけの身のやりくりに追われていて、ストレスも多くなり、他人を思いやる心の余裕を失ってしまっている。
 
この「思いやりの心」を価値ある徳の規範として力説したのは『孟子』である。
『孟子』は
 「人みな人に忍びざるの心あり」
  (人間にはだれしも、見るにしのびない、するにしのびない、という思いやりの心がある)という。
 
 「惻隠の心は仁の端なり」
(人の不幸をいたましく思いやる心は仁という大道の第一歩だ)
 
  『孟子』は、他人の不幸への敏感な同情によって、弱者をいたわる美しい心の情緒を言っている。
 
  そこから、自分の身を挺してでも弱い者を助けろ、弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯だ、という武士道の「惻隠の情の大切さ」という普遍的な価値感が生まれたのだった。
 
 お天道さまが見ているではないか、と卑怯を憎む心と惻隠の大切さを忘れた現代人。
  しかし、日本人は、思いやりの心の大切さを忘れていたわけではない。かつて、外国人は高く評価している。
  しかし、時にふれ、自覚するように心掛けていないと、利己主義の世間の波の奔流に流されてしまう。
 
  良寛さんは思いやりの極北を生きた人である。
 
  良寛さんは、深くあわれんで心に悲しむという「惻隠の情」は、むしろ「慈悲の心」に変貌している。
 
 良寛が乙子草庵にあったころ、天然痘が流行して多くの子どもが亡くなった。
阿部定珍が子を失って呆然としているのを見て、こんな歌を贈った。
『世の中の 玉も黄金も 何かせむ ひとりある子に 別れぬる身は』
 (この世の中にある高価な玉も黄金も、何になろうか。ただ一人の子どもに死に別れてしまった私の身にとっては何にもならない。)

 『嘆けども 詮なきものを 懲りもせで またも涙の せきくるはなぞ』
 (亡くなった子どものことを嘆いても何のかいもないのに、それがわかっていながら懲りもしないで、また子どもを思って涙がこみあげてくるのは、どうしたことか。)
 
原田正貞の子も亡くなっている。
 『あづさ弓 春も春とも 思ほえず 過ぎにし子らが ことを思(おも)へば』
 (あづさ弓、は「春」の枕詞。)
  (春になっても、とても春だとは思われない。亡くなった多くの子どもたちのことを思へば。)

 
 『人の子の 遊ぶを見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも』
 (よその家の子どもが元気で遊んでいるのを見ると、亡くなった自分の子どものことが思い出されて、流れる涙をおさえることができないよ。)
  (にはたづみ、は「流るる」の枕詞。)

 
  子どもは正貞の子であるが、良寛にとっては自分の子と同然であった。
 
 正貞の子への歌はつづく。
 『もの思ひ すべなき時は うち出でて 古野に生ふる 薺をぞ摘む』
 (亡くなった子どものことが思い出され、悲しみでどうしようもない時は、子どもが遊んでいたなじみの野原に行き、そこに生えているナズナを摘んで心を慰めることだ。)
 
 良寛さんの嘆きと悲しみようを知るほどに、見方によってはまことに大仰な「偽善」と思う人もあろう
そう思うほど現代は、「思いやり」の欠如が感じられる。
 
良寛さんの信念とは?皆で考えよう。(つづく)

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2009年3月31日 (火曜日)

良寛さんの続き3~愛語の続き

道元の言葉に
「世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり」

新井 満さんの訳、
 「お変わりございませんか…」。
  世の中には、こんな言葉をかけてくれる人もいます。身体の具合はどうなのだろう。何か困っていることはないのだろうか。何か悩んでいることはないのだろうか。相手のことを気づかう、これも立派な愛語です。
  では、相手の何について、気づかっているのでしょう。
  それは、いのち。いのちが、全ての基本です。
  相手のいのち、即ち相手の、健康と平安を気づかう愛心から、この愛語は生まれました。
  さあ今日も、あの人に、さりげなく、愛語をかけてあげましょう。
  「お変わりございませんか…」と。
 別れぎわに「ごきげんよう」、「どうかお大事に…」そんな言葉をかけてくれる人もいます。
  これもまた、愛心から生まれた、愛語でしょうね。「お気をつけて」、あるいは「どうかお達者で…」も。
 私が思うに「愛語」とは、しいて言えば挨拶と「ほめ言葉」による「ほめ上手」に見える。
  これが「愛語」だとする特別の言葉というものはないと。
  愛の心と「愛のまなざし」から発するものが、道元の言いたい「愛語」なのである。
  言葉はなくとも沈黙の愛語というものも無数にあるはず。

 

 
良寛さんは、それを実践するため
「愛語」や「思いやりの心」を妨げている横しまな心や態度を規制することが大事なのではないか。 
 相手が、耳あたりのよい、うれしい「愛語」にありつけないときであっても、少なくとも「不快な思いをさせない言葉やふるまいを自粛する」ことのほうが、よりいっそう大切
なのではと思い到った。
 
 こうして、「愛語」を、実践しようと考えた良寛の書き出したメモ帖が、良寛の「戒(かい)語(ご)」なのです。
  (良寛さん~1にも書きました。が親切な私は再度書き摩するbleah
 
こころよからぬものは
  「ことばの多き・さし出ぐち・はやこと・問(と)はず語(がた)り」~。
にくきものは
「人まどはしのこといふ・人をあなどることいふ・人のかくすこといふ・人に傷つくることいふ・人を見かぎりたることいふ」~。
つつしむべきものは
「人のものいひきらぬうちにものいふ・かしましくものいふ・しんせつげにものいふ・にくきこころをもちて人を叱る」~。
「すべて言葉は惜しみ惜しみいふべし」とも書いている。
 
良寛さんの「戒語」は、己の自戒の覚え書であり、項目の数は306項にも亘る。

なんとも恐れ入る人ではありませぬか。Itukushimu

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2009年3月30日 (月曜日)

良寛さんのつづき~2~愛語

高校時代、鈴木大拙ブーム?があり、道元の書に挑戦したのですが、言葉の表面は読めても、真意が掴めず、消化不良となりました。

例えば、
『愛語といふは衆生を見るにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語(ごんご)をほどこすなり。』

 意味は分かります。
当たり前じゃないか。何をいまさら、と思いませんか。
そこで、現代訳を探しました。

唐木順三の『良寛』の中から、
「愛語とは、菩薩が衆生を見るとき、まず慈愛の心を発して、その時その人に応じた思いやりの言葉をほどこすことである。」

分かったような、そうでないような訳です。
言葉を置き換えただけで、理解が深まりません。
もっと、分かりやすく訳して欲しいという欲望から、でて来たのが、
新井 満さんの自由訳『良寛さんの愛語』です。

「愛語、というものがあります。相手をやさしく思いやる言葉、という意味です。
  ところで愛語とは、どこから生まれてくるのでしょう。
  それは、相手をやさしく思いやる心。言わば愛心から、生まれてきます。
  まずは、心があってheart02、次にその心から、言葉が、生まれてくるというわけです。決してその逆ではありません。
 たとえば、相手を憎んだり、うらんだり、ねたんだりする心。言わば憎心poutからは、まちがっても愛語は生まれてきません。もし生まれてくるとしたら、それは、憎語でしょうね。
  言葉は、心の鏡。心もようを正直に映し出します。だから嘘はつけません。
  相手を切りきざむ、冷たいナイフのような憎心ではなく、相手を抱擁する、あたたかな春風のような愛心cherryblossom
  さあ、相手をやさしく思いやる、愛心を持ちましょう。そして、愛心から発せられた愛語を、あの人に、そっと、かけてあげましょう。」

 
  詩人らしい言葉で分かりやすく、読み終わるとなんだか心がふわ~とします。Tessai
ありがとう、新井 満さん。lovely

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