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2010年8月16日 (月曜日)

「無明の闇」からの脱却

お釈迦さまの教えの続き・・・抜粋

絶対的な物やそれを観ている自己もない・・・と考えてください。       
一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。
このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。

十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる。

無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。
これは誤って解釈しがちである。たとえば、無我の自覚であり自己否定に繋がる。また、全否定となり、絶対無となる。さすれば、生活や生命の営みの否定とされる。こうした考えは釈迦の悟りではない。

釈迦の悟りは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であった。
無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道がある
それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくことであろう。
こうした言い方は、詭弁に聞えるかもしれない。我慢してもう少し考えてください。

釈迦は初転法輪において、迷いの現実が苦でありが、克服しうるものであることを明らかにした。
苦は単に苦としてあるのでなく、我々の受け取りかたで変わることを説き、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。

煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにある。

執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。  「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「仏道」であると。

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