« 2010年8月1日 - 2010年8月7日 | トップページ | 2010年8月15日 - 2010年8月21日 »

2010年8月 9日 (月曜日)

諸行無常,諸法無我

私たちは、競争社会を生き抜くため、学校や職場の研修で、西洋的な考えを叩き込まれる。
「人生は自分の思ったようになる。」そのために、
1.自分の望むことをうまく想像する。image
2.そのことを考え続ける。think
3.実現を信じる。believe
4.行動する。do
そうすれば潜在意識に植えられた種が成長し、最終目標である「自己実現」が得られると・・・。
このマーフィーらの考えにビジネスを無理やり重ね合わせた研修をされる。

それを信じても、所詮、勝ち組、負け組みになることも知らず、家庭を犠牲にしつつ邁進する。結果、体調を崩し退職に追いやられる者、自殺する者、濡れ落ち葉などは幸せ者である。

そうして、戦後の人心は不幸になったと私は思う。
増え続ける自殺者、放棄老人、育児放棄、うつ病の増加、猟奇殺人事件などが急増している。根っこのない政治家に舵取りはできない。

だからこそ、この世の物や自分はつまるところ無いものだと知ることからはじめよう。

諸行無常(しょぎょうむじょう)とは、
この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
平家物語の冒頭で使われているのでそれとなく理解されていると思う。
般若心経に「色即是空」とある。

諸法無我(しょほうむが)は、
三法印・四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つである。
すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。
物も心も無いのであるということだ。
心とは何でしょうか。医学的には脳だと思いたいが、それだけではないような気がしませんか。自分というものもはっきりとはないのです。

諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。

存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいである。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。
釈迦が主張した仏教の特色である。

諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在を否定し、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。

我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。
諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

自己からの脱却については・・・続く

| | コメント (0)

« 2010年8月1日 - 2010年8月7日 | トップページ | 2010年8月15日 - 2010年8月21日 »