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2011年4月 6日 (水曜日)

自分とは あって無いもの

自分といふ存在が認められないと、不満になったり、褒められると嬉しくなったりする。
経営学では「自己実現」を最終目標とする考えで人間をコントロールしようとする。

「人間は考える葦である。」といふ西洋哲学が基になり、いろいろなハウツー物が考えられている。

しかし、僕は思春期のころから「自我」について今日まで思い続けている。
ある時期、同郷出身の心理学者 岸田 秀氏と伊丹 十三氏の対談におおいに同感した。
自我の広がりとか、ドロップアウトをどう捉えるのか?
他者との境というか判別はどうして発生するのか?

イジメ問題も議論されていた。
友人をどうすれば増やせるのか?
何故、あの人は友人が多いのか?

などが雑誌やハウツー本となって氾濫する。

僕は、最近になって自我を意識しないといふか、自分という意識は幻想であり、もともと無いものであるにもかかわらず、強く意識するような社会の在り方は間違いだと考えている。

自己実現などしなくて良いし、出来ようはずが無い、出来たと勘違いしている方は多い。 有名な流行の評論家さんがたは多分自分が成功したから、自己実現できたと思っているのでせう。
これは大いなる勘違いである。

そも、自分など初めから無いのである。

自分を空しゅうすれば、イジメ、友人問題など起こりようが無いのであるからして。 
社会や企業は「人・物・金」が企業のもとであると教えている。
人は物と同じ扱いなのです。
それに気がつけば悩みなどなくなる。

物は絶えず変化し続ける。永遠のものはない。

人もあると思っているのは幻で物とおなじやうに永久のものではない。

とは言いつつ、無我にはなれない。 努力しても 自己の種のやうなものがのこる。

自分をなくせば、行動はすべて他のためものとなり、おのずと友ができる。

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