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2011年1月13日 (木曜日)

戦後の農政は脳性麻痺だ

10日のブログでは非農家の方は分かりにくいと思います。私のまとめの悪さを差し引いても理解しがたいと思う。

理由は、農政が脳性麻痺を起こしていたからです。
こんなことを書くと命がけで農政に取り組まれていた公務員の方はお怒りになると思います。
結果が悪いのですからしかたありません。

縄文末期~弥生時代のあるときまでは、農地は全員の共有資産だったと思います。
その後は権力者の所有となり、戦後の農地改革では農民の個人所有となった。
アメリカが小作農家ばかりにしたのは、アメリカの穀物を日本に売る準備をしていたのです。
給食のパンと粉ミルクが証拠でせう。

農家に面積は少なく赤字経営であったが、そのころの農民は農地への執着が強かった。農地を最大限休まさず利用した。
政府は半分の農家は消えろと考えていた。しかし、農地を売ろうとする人は少なかった。有史以来初めて自分の田んぼを持ったという喜びが強かった。

やがて、赤字続きで田んぼの宅地転用が始まった。
5反確保するため、便利な田んぼを売り、不便な安い田んぼを買う。その差額で生活する。あるいは、機械を買う。

兼業農家でないと生活できない。さらに、減反政策。農業は赤字。こうなると、田んぼの売り手はいるが、買い手はいない現状に至る。

農家の本音は農業は辞めたいのです。
昨年、民主党の個別補償が始まった。
減反制限ギリギリまで米作を増やした農家が散見される。1反当たりに対してくれるのだからいままで草だらけの田んぼ?で米作りすればお金をくれるのだ。ずる賢い百姓の思いつきそうなやり方です。

そんな百姓を責めても百姓はなんとも思いません。せせら笑っています。
10~15年すると農業は崩壊するでしょう。

私たち団塊の世代は親父の命令で田んぼに縛られながら兼業農家として今日まで生きてきました。
子供達は全員勤め人です。私の後継者はいません。息子がいますが交代制の不規則勤務です。これでは百姓仕事はできません。それ以前に、小規模経営で赤字なのですからお米は作るより買ったほうが安く付きます。

百姓は農業から離れる時、国民に対して「農業を崩壊してごめんなさい」なんて誰も思いませんし、言いません。
後のことなんか知りません。2~3代かけて農業からの離脱を計画し、それが間もなく完結するのです。
1次産業のなかでも一番搾取され続けてきたのは農業です。有史以来の念願が叶うといっても言い過ぎではありますまい。

追伸:自分の米は自分で作ってください。(今の法では違法行為になります)

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2011年1月10日 (月曜日)

戦後 農業政策の検証 NHKより

昨夜、NHKで見出しの再放送が夜10時からあった。

農地解放で百姓は有史以来初めて土地の所有者となった。
喜びが消えぬ昭和36年農業基本法制定される。
骨子は「構造改善」である。この考えは今日まで続く。
直後に赴任した農家出身の河野一郎農林大臣は「実行不可能な法律だ」といった。

霞ヶ関の計算では農家1戸当たり2.6ha要だった。農家の1/2が家ごと離農する計算だった。そうでなければ農業経営が成り立たないからだ。しかし、農民は初めての自分の農地を手放さなかった。河野大臣は農民の心情が分かっていたが、官僚は分からなかった、というか、本心は不可能だと思っていても、法律に沿った施策をするのが己が安全であった。

農家は経営規模が小さいのを5年かけて村総出で区画整理し、使いやすい田んぼにした。
皮肉にも、これがかえって農地転用の引き金となった。
拡がった農道は通勤路となり、碁盤の目のような田んぼは宅地などに売りやすかった。

農家は農地が狭いので当然赤字となり、出稼ぎ、兼業化が進んでいく。
田んぼが売れたら生活が助かると農家は考えた。徐々に田んぼが宅地になっていった。
霞ヶ関は「農地がなくなる」と考え、行政に市街化区域と調整区域に区分しろと命をくだした。
個人所有の土地に制限をつけ、土地の強制政治が始まった。
しかし、農家は田んぼが市街化区域になるよう行政に働きかけた。この時点で農家は土地の資産管理者に色を表面に出した。
補足しておくが、農民とは5反以上(香川県は4反)農地を所有している者を言う
 また、3反しかない人が農地を借りる場合は5-3=2反以上借りて耕作しなければならないのだ。
 新規に農業をやりたい人や定年後の非農家の人が田んぼを借りる場合は5反以上借りなければならないのが法の定めである。

米は100%を超える自給率で、基本法から10年後の昭和46年から減反政策が行われた。
政府は農家を救うため、税金を使って米価を引き上げていった。農民は族議員に投票した。このころから政治中立の立場を取るべきJAが政府を後押し、議員の大票田となっていった。
馬鹿げた行為の限界はすぐ訪れた。なのにJAは圧力団体として政策的行動を農民とともにとった罪は大きい。

昭和61年アメリカ精米業者からの圧力を理由に米の価格は下がり続けた。
さらに、平成4年と食糧管理制度の廃止と米の市場価格導入を行った。
当然、離農者が増え続け、耕作放棄地が増えた。霞ヶ関の試算では、米作農家は10~20haの農地がなければ経営できないとはじきだしていた。農地の集約が必要だと考えた。
 これの対策として、農地を新規参入者や企業に条件付で「貸し出す」案を平成3年12月下旬に農地課と行った。 ところが、平成4年1月4日の新聞に「農地は誰でも自由に売買できる」と議論を無視した悪意の報道がされた。

 そして、農地法を錦の御旗とする霞ヶ関の「農地族」が、農地の流動化に国はブレーキをかけつづけた。
農地法は禁断の果実のように議論することさえタブーとなった。
結果、放棄された田んぼが増え続けた。
平成21年ようやく18年ぶりに農地法が修正された。あまりにも遅すぎた。
農民は農地への執着心などなくしていた。

自給率40%は飼料が入った自給率であり、家畜に草を食べさせれば残りは人間の自給率となる。
多分、70%以上あると思う。 飼料が入っているのは、飼料を与えるのを前提とした農業の規制、基準があるためである。 言わずもがな、アメリカから飼料を買うための政策である。

農家は田んぼを売らないので(農地法で売れない)、規模拡大の精神は夢と消えた。
農家は土地管理者であり、経営のできない農業からの脱出計画を2~3世代かけて進めてきた。
今、農家で体が動けなくなったら 離農するでしょう。あと、10~15年ぐらいでしょうか。

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お正月は旧暦で祝おう

明治から太陽暦の生活を政府から強いられ、今や節句は旧暦でなどと口に出せば変人扱いされる時代になってしまった。

まづ、東アジア諸国は旧暦です。中国は「春節」、ベトナムは「テト」と呼び戦争は休戦したいた。アメリカはクリスマス休戦だった。日本人は季節のうつろいを敏感に感じ取る民族だと世界が認めているのに何故?新暦なのか??

正月が過ぎ、6日は「小寒」、20日は「大寒」とますます寒さが厳しくなる日よりも、今年の旧正月は2月3日です。たまたま節分と重なる。冷たい恵方巻きに喰らいつかず「雑煮」を食べませう。
翌、2月4日は「立春」です。

「ひな祭り」も旧暦であれば桃や桜の花が咲き誇ってるではありませぬか。

新暦にこだわるのに、お盆は7月15日ではなく月遅れの8月に執着しているのでしょうか?
変だと思いませんか?
7月はまだ梅雨があがっていないし、暑さの峠を越えた月遅れがいかにもお盆にあっているからでせう。

お盆と同じやうに、他の民族行事も旧暦を勧めます。
自分だけ、家庭だけ、友人だけ、でこっそりやるか、実行しないでも、いいから意識の中で「今日は旧正月なんだ」と思って暮らせば 未練だけで生き長らえている日々が少しは楽しくなるかもしれぬ。

企業は、中国の「春節」をチャンスととらえ設ける計画のようです。アジアの人たちを理解しようとすれば、同じように旧正月を祝うことからはじめませう。

喪中葉書にかえ父宛に来たお方に 以下のやうな はがきを出した。

050022ldsc_7437
光明無量 寿命無量
昨年三月二十四日、父 覺(釋 広徳)は浄土へ往生いたしました(享年九十三歳)
悲しさと寂しさはいまだ癒えませんが 父と六十余年間生活を共にしたなかで、お念仏のご縁に遇えて生きる力を恵まれ、本当に有り難く思っております 家族一同、力を合わせて歩んで参ります
よろしくお導きくださいますようお願い申し上げます  合掌

  平成二十三年一月


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