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2013年8月21日 (水曜日)

墓地のあり方②

かつて、親鸞が死において「我が殺生多き遺体は鴨川の魚の餌にでもしてくだされ」と云われて往生の素懐を遂げられが、門弟たちは遺言を無視し、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。
やがて、大谷の西、吉水の北にある地に六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。
やがて、本願寺などの立派な寺院へと変貌する。

Index01
     大谷廟堂(善信聖人絵=重文)

墓に埋葬されていたのは、権力者などに限られていた。
庶民に立派な墓など無く、戦の巻き添えや飢饉で死んだら名前も分からず合同葬だったろうと思う。
あるいは、獣や鳥に食われて白骨となり土に帰って行ったのだろう。

盆、暮れの里帰り、墓参りなどという風習は近年のものであることは、上記からも推察できよう。

墓を建てることによって、家族制度を守ろうとした。
戦前は、家の相続は長男へすべてゆくが、家・墓などを守る義務がある。
支配者、地域社会、寺院の寺受け制度、などとともに家のために人を拘束する目的で墓は作られたのであろう。

墓とはなんと残忍な代物ではないか。


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